思索に耽る
ふと、かつて大学時代にキャンパスのベンチで物思いに耽っていた頃を思い出しました。確かあれは秋の始まりで、涼しい風が吹いていて外で過ごすには気持ちいい気候の日でした。私の通っていた大学の学科にM先生という、ちょっと一癖あるけれどとても含蓄があって教育熱心な先生がいらっしゃり、私はそのクセの強さがかなり好きでした。卒業式の日にゼミの先生と共に、M先生とも写真を撮っていただき、それを見返すたびに良い先生に恵まれたなぁと思い返したりもします。
さて、そんなM先生が通りかかり、私に「おお、◯◯くんじゃないか。何をしてるんだね(本当にこういう話し方をするから面白い)」と話しかけられ、私は単にぼーっとしていたというのもあるのですが、色々と考えていたので「思索に耽(ふけ)っています」と答えました。イマドキの大学生で思索に耽るなんて高尚なことをやってる奴がどれくらいいるんだという話ですが(まして哲学科でもない)、M先生はそれを聞くと「おお、思索に耽るっちゅーのは大事なことやね!いいじゃない、存分に耽りなさい!」と持ち前のニコニコした笑顔で元気よく言われると、そのまま校舎の方へ向かって行きました。
私にはこの何気ない瞬間…側から見たらただの世間話のようなやり取りなのですが、非常に印象深いものがあり今でもはっきりと覚えています。ここで「なーにをバカなことを言ってるんだね!早く勉強したまえ!」みたいな形でぞんざいな扱いを受けていたら、もしかしたら「なんだこのオッサンは!」と若気の至で腹を立てていたことでしょう。しかし、M先生はそうではなく、「それもまた一興!」というように気持ちよくお返事をされたのです。これは私にとって「ぼーっと何かについて考える」という時間は大事なことなんだ、と再認識させてくれた瞬間でもありました。「下手の考えは休むに似たり」という言葉がありますが、それを方々で言われたこともありますし、NHKのチコちゃんが「ぼーっと生きてんじゃねーよ!」と決め台詞を放ったり、ぼーっと過ごすことは兎角現代日本で良くないことのように扱われている節があります。しかし、脳科学ではぼーっとしていることはデフォルトモードネットワークが活性化する時間でもあると言われており、実はアイディア出しやそれまでの知識をつなげることなどに有用であり、作家や発明家がぼーっと何かを見ていたら急にアイディアが湧いてきた!という逸話もこれに近いものがあるのだと思います。そのため、忙しくしていることこそ正義であり、ぼーっとするのは怠慢である、という論調には個人的に賛同できません。
この思索に耽る時間は、非常にどうでもいいことに思いを巡らす時間でもあります。
最近で言えば「令和のコメ騒動」と呼ばれる米の流通価格の急上昇やJAと卸売業者との関わりなどがニュースで連日取り上げられていますが、ふとした瞬間「何故人々はそうまでして米に執着するんだろう」と思う瞬間があります。もちろん、日本人が日本に生まれ、幼少期から成人に至るまでずっと主食として米を食べてきたため、それが手に入らなくなるのは死活問題である…ということは理解できます。しかし、現代社会は飽食の時代でもあり、米がなければ麺類やパン、あるいは粉物などでいくらでも代用が可能です。その分バリエーションは限られてくるでしょうが、仮に一時的な問題なのだとすれば、それで凌げるじゃないかと考えてしまうのです。
ところが、現実的にそうはなっていない。米の価格が上昇し続け、一般庶民が米を食べられなくなるのは大問題のようです(少なくともニュースを見る限り)。だとすれば、近年炭水化物抜きのダイエットや米が糖尿病など生活習慣病の一因であると取り沙汰されていようと、いかに米が日本人の生活に根付いているかということを考え直すきっかけにもなります。例えば、ここで値上がりによりパンが買えなくなる!ということがパラレルワールドで起きたとして、果たして現在のコメ騒動ほど騒がれるだろうか…とも考えたりするわけです。仮にコメ騒動ほど騒がれなかったとすれば、パンはどれだけ日本人にとって好まれている食べ物であっても、主食を代替できるほどのものではない…ということになります。そうすると、今後物理的に米の農作ができなくなる以外にパンが日本人の主食の地位となることは残念ながらなさそうです。私はパンが好きなので、米(ここでは日本米)が食べられなくなったら寂しいですが、他の品種でも代替できるし、特に人生で問題はないなぁと考えてしまいます。そういう感覚の違いもまた、ニュースを見ていると面白いなと感じる部分です。
このように、日常に溢れている重要なことからどうでもいいことまでをぼーっとした時間に考えていると突然、それまで何の関係性もないと思っていた要素が繋がる瞬間があります。これもデフォルトモードネットワークのなせることなのかもしれませんが、いかに思索に耽る…ぼーっとすることが有意義であるかをものがっている気がします。たまにはあえてぼーっとする時間、もったいないようですが捻出してみるのも良いかもしれませんね。